今日のいじめは、子供を殺人者にする例が大変増えた。
彼らはどうしてそこまで、同じ年ごろの子を殺すほどに追い詰めたのだろう。現在人気の執筆家「ひろゆき」さんによれば、「誰でもいいから、いじめたい」空気が、集団心理として働く作用として起こるという。ということは、いじめを受けている子は、なんの意味もなく、加害者となる子供達の、単なる憂さ晴らしでされているという事である。
そして、いじめを受ける子には、何か理由があってというより、何かしらの理由、例えば肌の色だとか、貧しいとか、母子家庭だとか、どうでも良い、下らない理由で単に受けている現実やネガティブなイメージを無理くりこじつけていじめをするのであって、いじめられる子供が悪いわけではない、と言えるだろう。要は、いじめを受ける子は問題があるとかないとかの前提に、加害児童のいじめが既に無意味なのである。何故なら、単にいじめたいだけなのだから。そこに意味がないのに、同級生や、同じ年頃の子をターゲットに追い詰め、歪んだ楽しみを見出し、その愉悦を増幅させる。子供ながら、何とも忌むべき残酷さだ。
同時に、いじめられる子は死にたいほどの気持ちを限界まで積もらせてうつ病になり、希死念慮の果て、最悪命を絶つ。反対に、いじめをする子供は世間的には普通とされている。この滑稽な現実とは、なんだろうか。
一つ、話を転じてみたい。フィクション作家の石井光太さんによる「四十三回の殺意」―川崎中一男子生徒殺害事件の真相―より。事件は、「川崎市川崎区の多摩川河川敷で・・・被害者上村僚太さん(十三)が死亡解剖の結果、死因は鋭利な刃物で首を刺されたり切られたりしたことによる出血性ショック死と判明。・・・男性は服を身に着けておらず・・・」と毎日新聞では報じ、この殺人を犯したのは、三人の少年であった。遼大君はカッターで四十三か所(右首含む)切り刻まれた後、何と二月の寒い冬の多摩川を泳がせられたあげく、少年らから放置され死亡したのである。主犯格の少年Aは、毎日酒を飲み、事件当日も酒癖の悪さを持って、カッターを振り上げている。裁判官の判決によると「被告人自身が被害者の頬を切りつけたことから、今度は報復や逮捕等を恐れて、被害者を殺害する他ないと突発的に考えたというのは、通常では到底考え難い程に、極めて自己中心的、短絡的な発想であって、強い非難に値する。」という判決理由を下している。次の少年Bは「・・・成育歴に由来する被告人の性格傾向が(判断力、想像力、感受性が乏しい)相当程度影響しているため、責任非難を減少させる事情である。但し、頸部を三回切りつけるという危険性から・・・特段の事情があるということはできない」最後の少年Cは無罪を主張し、嘘を吐き、責任を他の少年に擦り付けたりと散々な悪態ぶりであった。検察官から、事件後は後悔したかと質問されると、
「考えないようにしてました。考えたくなかった」
と、彼が薄気味笑い笑みを浮かべているのが(筆者が)見て取れた。
加害者の少年達にはそれなりの家庭環境や発達障害などがあり、今回の凄惨な事件が起こった。さて、遼太君と彼らの関係はどうだったかというと、遼太君は中学に引越しをし、馴染んでいた場所から遠ざかり、同居する母親の恋人と、小さな自分の兄弟などの世話から離れたく、夜な夜な不良グループと付き合うようになった。とはいっても、彼らのつながりとは「三人(加害者)をはじめ、グループの面々はゲームやアニメに向き合うばかりで、相手の事を理解して友情を深めるということをしてこなかった」と本文にある。彼らは、ただゲームの相手や共通のアニメの話題など、遊び相手が欲しくて不良グループに属していただけであり、加害者の少年らもそれが好きだったに過ぎない。たった、それだけの希薄な関係であるのに、主犯格の少年Aが酔っ払ってキレ、遼太君に些細な難癖をつけて三人で大きなカッターナイフで時間をかけて切りつけ、何を思ったのか川が近くにあったというだけで泳がせた。
この事件はいじめでは無く、殺人事件として取り上げているが、いじめに共通することがある。それは、大した理由もなく、また同じ年ごろであったというだけで、複数人で被害者を追い詰めて殺したことである。近年の子供たちの関係性は希薄であるが故に、簡単に他者をいじめることができるのだろうか。友情とは何か、友達とは何かを知ろうとしない面が目立つ。他人に対しての思いやりをはじめ、命の尊さも理解できないのだろうか。いじめを作る現代の学生たちには、かつてない程の共感力の欠如が著しく生じており、いじめを受ける子とは特に強い関係性でもない、むしろ無関係ともいえる程の間柄でありながら、いじめをした結果、殺人者に至るようである。これは集団での殺人事件である。
かつて私もいじめを受けたことがあるが、そのほとんどは小学生であった。しかも、いじめる理由で思いつく事といえば、転居したことによる幼稚園や保育園が誰とも違ったこと、知らない子たちの中で孤立していたこと。私本人は大人しく、同級生の中で地味で目立たなかったことと思うし、何か危害を加えている、迷惑をかけていることは全くなく、いじめの被害を被った。最初はランドセルに毛虫を入れられる、小石を投げられる、など小さなことから始まったが、いじめには意味が無いのだ。後、私は同級生からつまらないもの、目立たないものとしてみなされたのか、空気になり、無視されることが続いた。私は自殺をしたいとは思わなかった。まだ、自殺を思いつくほどの年齢ではなかったかも知れない。
けれども、毎日は孤独で、家族との関係も希薄で、挨拶すらしなかった家庭で育ったので、私は生きていることが辛かった。その証拠か、私は食べ盛りの子供だというのに、食欲がなく、また、ひどい吐き戻し方を目にしたこともあり、嘔吐恐怖症のものもあり、小食だったことから、「仏様のごはん」程度しか食べなかったのだ。なにしろ、ご飯はまずかった。味がしなかった。毎日は無気力で、何かしたいことややりたいことなど無く(楽しみがない)学校に行きたくなく、早く大人になって地味に仕事をする日が来れば、自分で自分の生活を、給料で買えるものだと思い、学校での日々が悲しくて、毎日家で泣く日々が早く終わればよいのにと思っていた。現代の大人の孤立も深いが、子供の孤立はもっと深く、私は恐らくうつ病だったと思う。親は私に対して無関心だったのもあり、早く家から出たいと思ったほどである。集団で孤立するより、一人暮らしをして孤立しているほうがよっぽど良い。
いじめから逃げることは、逃げるというより、避難である。自分勝手な加害者という敵から命を守ることである。
彼らはいじめる事に罪悪感を感じないからいじめ続け、いじめの被害者が命を絶たれた時にやっと、自分たちのした事が大罪であり、それによって加害者の家族は仕事を失い、加害者は学歴も作れず、転居先の学校で殺人者の噂が流れ、居場所を無くす。親が離婚して、兄弟とも離散することもあるだろう。更に今はSNSやYouTubeでも拡散され、逃げ場がない。当然の報いだ。しかし、その加害者も、学校やPTA教育委員会に、いじめによる自殺であったと認定されなければ、加害者は平然と普通の児童としてなんの問題もなく、不当な扱いもされることなく、生き続けていくのである。なんと不条理な世の中であろうか。だからこそ、命の危険を感じた時、また、いなくなりたいと考えた時、生きていることがただ辛い、学校へ行くと暴力を受けるなど、身に危険が及ぶことがある時、先ず第一に信頼できる保護者へ伝える事である。優しい子は、親を心配させたくない、迷惑をかけたくないと言って全く話さない子もいる。しかし、それは間違いである。親は、子供を守る義務があり、親が子供を見捨てれば保護責任者遺棄罪になる。もし親が頼れないなら、子供の相談電話窓口も今は数多くあるし、児童相談所や市・区役所の子供家庭課に駆け込めばよい。誰も助けてくれない場合は、自分自身を守らなければならない。誰かの助けを待っている暇はない。待っていたら、あなたが助けてほしいと本気で思う時、もはやどうやって死ねば良いか考えている。
そして、自分が自殺した時は幸せな将来も全て破棄することとなる。自分の未来をこのように考えてほしい。もし、今命を絶ったら、これから出会う良い友人、通学経路が違うことで進学時に思わぬ恋人が出来るかもしれない。また、後に社会人になり、会社での業績を評価してもらい、若いながら昇進してその自分の給料でたくさんの生き方が出来るかもしれない。あるいは旅行をしたり、好きな食べ物や趣味に没頭できる機会を体験できる機会があるかもしれない。生き方はあなたが好きに選べばいいのだから。
参考に、今の私を出してみよう。
私は今、一人暮らしをしているが、自由である。勿論、仕事をしている時間は縛られるけれど、何でも自分で決定することが出来る。先ず仕事の選択、衣食住の選択、給料の管理や、人付き合いをどうするかも決められる。一人暮らしだと、何か分からないこと、病気になったり、困ったことがあったりしたら大変だと思われるが、そんなことはない。今の時代には、パソコンも、スマホも、iPadさえもある。分からない事はあまりない。分からないならば、参考として本を調べたり買えばよいし、各問合せ窓口に電話をしたり、メールをしたりすればよいのだ。病気になって不安になった時も、自分に当てはまる病気の本を一冊でもよいから買って学べばよい。そうすることで、自分の病気に対する不安や、自分がどうして病気になったか、どうやって治療をすればよいか、全て載っている。
私は少なくとも、自分が十八歳に気分障害と医師に診断され、後の二十二歳に双極性障害U型と告げられた時、図書館に通い、自分が最も分かりやすく、共感できる病気の参考書を手に入れたことで、だいぶ救われた。本には、国や市の制度でどんな支援が受けられるか、どんな治療をしていくことで病気が寛解するか、同じ病気の人がどのくらいいるかなど、有益な情報をたった一冊千三百円の本が教えてくれたのだ。何も、人から教えてもらえないからと嘆く必要などない。調べる事、これを培うだけで、大分人生は変わり始める。その一人暮らしが大好きで幸せでならない。誰かに咎められることもなく気が楽だ。
要は、調べる力、考える力を勉強で調べるように、生活も調べることを始めればよい。小学校、中学校は確かに義務教育ではあるが、それより自分が学校に行くことによって命と未来を失うよりは、不登校になり、避難したほうが良い。その間、自主学習も出来るし、家にいれば実学を学べる機会は大いにある。例えば、家事を手伝うだけで、生活力が備わり、お小遣い帳をつければ、何に一番お金を使っているか、支払わなければならないものは何か(例えば文具、雑誌など)が分かり、後に社会人になり給料をもらった時、どのようにお金の配分をすればよいか瞭然である。。
いじめられて辛いからと言って、自分を殺す必要など、ない。理由もなく、加害児童はいじめてくる。なんの意味もなく、あなたを殺そうとする。そんな馬鹿げた事に命を捨てるより、今避難すればあと八十年は自分のものだ。
将来のために自分に出来ること、したいこと、幸せになりたいこと、何をして、どんな人と縁を結び、何をよろこべるかを夢見ながら、将来を蓄えておけばよい。学生の時に出来ることは勉強を習うだけではない。興味のあるものを手で触り、調べて掴めばよい。ゲームでもよいし、漫画でも良いし、声優でもよいし、YouTubeでもよい、とにかく好きなものから将来を夢見よう。少なくとも私は、生きていたから今なんでも答えてくれるネットに出会えた。二十歳に自殺していたら、進展するネット業界やPS5の恩恵に与れなかった。今の時代は頭の良い人たちが世界中にいるため、研究は早く進展する。それは、自分が使うもの、大事にするもの、物質であれば全てだ。人間関係を充実させたいなら、お金では買えない。だから、自分自身をよく吟味しつつ、いじめに加担する側にならず、自分を有益にしてくれる人とだけ付き合っていけばよい。人間関係で良い関係で居たいなら、努力して人に揉まれるしかない。決して、いじめで殺されてはいけない。生きる意味とは喜びであって、それを実感することだ。どんな事があっても生き抜いて、耐え抜けば、いつかは幸せを掴めるのだから。
参考文献
ダイヤモンドオンライン「ひろゆきが断言「いじめられる側にも問題がある」は間違い
石井光太「四十三回の殺意―川崎中一男子生徒殺害事件の真相」新潮文庫 |